2015年9月11日金曜日

たっぷりと水を含んで肥大して凍りついてしまったものをみていると、復興するとはなんだろうと考えてしまう。勿論何だって必要だし何があっても十分ではないんだけど、なんにもなくてももう一日生きてみようとか、もう一つやってみようとか思い立つ、誰もが何度も救われた経験のある アレだ。
ナルシスティックだけどナルシシズムではなく、根源的な・・・という表層の観察とは違う、なんとも言い難く有無をいわさず 冷静に奮い立たせるアレだ。
例えば国体と言えど 熟成するにはとても時間がかかる。フランス・ドイツ・イギリス・アメリカ、、立国した時期も歴史も違うけど 成立に侵略の歴史を持つ。むしろ侵略の過去を持たない国のほうが少ないんじゃないだろうか。そして転換期に維新も革命も経ているのだが、革命の動機とはなにか、、考える必要がある。流れが出来てしまうには理由があるし、ねじ伏せようとするのもわかるけど、、少なくとも政治思想と人格は切り離して考えてないとあまりに大人げない。うちの近所には右も左もゲイもアラブもロシアもいろいろ住んでいるけど みんな挨拶も世間話もカフェでお茶もする。その人が何人でどういう人か と政治は関係がない。それが平和ということだし 国民にとっての政治とは 空気みたいであるのが望ましい。うまいまずい言いながら 時々小規模なデモをしながら なんだかんだ言いながらでも包まれて生きていることを基本的に良しとする。  いまは何も言えない、、この異常な分裂状態は意図的なものだからその先なにを目指しているのか どこまでやろうとしているのか まだわからない、、。

2014年3月18日火曜日

こと文化に於いては、或いは他の事もそうか、時代を切り開いてきたのは極一部の少数派の変わった人たちだったのだ。その切り開くある段階に於いて、多数派=大衆化するためには、プロデューサー的役割が必要だったわけで、過去なら演説やらパトロンやら口コミやらによって、じんわり浸透していたのが、現代は過度に情報過多と高速化によって、埋没せず瞬時に浸透するためには、食品添加物或いは化学調味料的な刺激が必要になっている。そういう中で地味な努力を積み重ねて時代を牽引する仕事をしている人は、やはり少数はいる。そしてもっぱら大衆の庶民は情報に流され続けている。そんな中で、どこかの国の政府は専ら刺激物的情報戦略をとる。挿げ替えの効く首に専ら刺激的な暴言失言を連発し、何とか推進力を得ようと添加物まみれの偶像を捏造する。
しかし、情報過多により添加物により麻痺させられた大衆の脳がそれを創り出しているとも言える。
とすれば、アベノミクスなどは、麻痺した大衆の脳が刺激を求めて生み出した幻想なのではないか・・・ そして、それをモデルに情報発信する側が或いは国民が総安倍化するのではないか・・・そう考えるとなんとも脳内が気持ち悪くなるのだが、或いはヒーロー不在な時代には、そうして牽引するしか乗り切るすべもなくやむなく打ち出されている核ミサイルと言えなくもない。

ある時代までの日本人には強烈な刷込みがされていて 無意識にどこかで悪代官を必要としている。そして水戸黄門の印籠か暴れん坊のマツケンか桜吹雪を今か今かと待ちわびるのである。それまでに膨大な大衆が殺されようと苦しもうと、お代官には逆らえないよう周到に教育されている。
そこから脱出するには、やはり時々情報の追ってこない山の中か何処かに引き篭もる必要があるのか、そろそろそういうバカンスが必要になってきている。次の仕事が終わったらしばらく山か砂漠にでも篭ろう。 今月末はいよいよ、一晩限りのモンテカルロ・オペラ座に乗り込む。
最初 話が来た時は、何故うちに依頼が来るのかさっぱりわからなかったのだが、冗談半分で受けてみてなんとなくわかってきた。出番が土曜の夜8時の最後、桜吹雪も何もかも散り終えてドリフが全員集合してビバノンノンな役割なのだ。  なので、笙も尺八のおじさんもひっくり返してドタバタやる予定。 メンバーはブラジル人とギリシャ人の男ダンサー 南国ラテンノリノリアンサンブルだ。

http://www.printempsdesarts.mc/fr/edition-printemps-des-arts/programme-14/week-end-japon-44



2013年12月17日火曜日

抑 親子の関係と人間関係とを同じに扱うべきではない。
親子という限定された枠内でのみ有効な関係は、限定されているからこそ重要なのであって特別だ。
社会的人間関係は恋愛を含め、あくまで他人だ。他人だから出来るのであり深まりの理由もそこにある。
教育も、先生と生徒は他人であり教員はタダの職業でしかない。その一線を引いた上でなければ教育指導など出来ないしされても押し付けがましくて困るだけだ。
フランスの教育指導要綱など観たこともないが、その辺りはとってもドライな風潮があるように感じる。勿論親身な先生はいるのであろうが、日本の熱血とは少し違う気がする。
例えば、国歌斉唱するよう指導要綱はあるにしろ、強要ではないし歌わない責を指導者が負うなどとんでも無い。愛国も同じだ。要綱=強要ではないし責任は指導者にはない。教育者の責任とは、そういう社会の都合の中で個人として選択して生きれるようにすることかもしれない。
そういう観点からダンスとかアートとかを考えると、どうもダンスとか音楽とかましてや芸術とはとひとくくりにすることができなくなる。例えば音楽にしてもその時の状態で聞きたい音楽は違うし、それは 薬で言えば異なる薬効を求めている。ビートやメロディーに流されたい時もあれば、引っかかって考えたい時もある。それは同じ音楽でも、ほぼ別物と言って良いと思う。ダンスだってそうだ。
その辺りの薬の服用の仕方が、文化の熟成度だろう。振り幅広く薬を飲み分け、かつ思いがけない薬効に当ってしまった時も、たくみに飲み方を変える というか効き目に合わそうとするのだ。そのことで、良い薬を飲んだことにしてしまおうという強かさがある。
服用するわたしの主体性だけでなく薬剤師への尊敬と、あくまで他人である懐疑心がどこかに匂う。こっちでは子供であっても、公共の場所=他人の前では公人としての振る舞いを要求される。
それがパブリックという、他人の優しさと厳しさの中で負けてない生き方で、だから気持ちが良い。
日本に行くと、とかく決まり事の多さに辟易する。しかも、何故 というところが欠落して決まり事だけが独歩しているから聞き分けもない。そしてそのくせだらしない。
制度とは創る人支える人”恩恵”を受ける人によってどのようにも変化する。日本にも本来的にはそういう価値観はあった。思い出せばいいだけだにゃー。

2013年1月22日火曜日

ブログでは毒付くのはやめようと思っていたのだけれど どうにも居たたまれないのでやむなく・・・

世界共通にすべての生き物はみんな自分のために生きている。仮にその過程で人の役 ものの役に立っているとしてもだ。それは 国家の大臣であろうとエリート駐在員であろうと原発作業員だろうと何の役にも立たないダンサーであろうともだ。僕自身 それが国家であろうと会社であろうと興行主であろうと 他人のために舞台に立ったことは一度もない 仮に国家的規模の事業に関わっていようと それは役職としてそうあるのであって 個人としては一様にみな自分のためだ。そこに 会社のためとか国家のためとか言う場合どうにもきな臭い匂いが漂う。つまりそこに冠を被せたがるのは 何々の利益のために生きたあるいは死んだ 事への後ろめたさだろう。また 僕ら全てがここに至る過程で 罪のないやつなど一人もいない 蹴落としたり傷つけたりの連続である 何の罪もない者などこの世には存在しないのだ。 
たとえば フランスはとても罪深い国だ 嘗てはアフリカ他多くの国から植民地搾取し 大っぴらに武器を売り 大量の原発を持ち あまった電気と核廃棄物を他所に売りつけあるいは押し付け それにより国家財政は安定しているので 国民が払った税金はほぼ国民に還元される。 大っぴらに大悪党だけどいい国でしょ! というのがこの国の茶目っ気だ。 それでもフランスの政府代表が どんな人にであれその死に際して 国のために云々とは 決して言わない。それは国家の傲慢だし ある危険な方向性を孕んだ思想であることを歴史的に知っているからだ。    
それで 何に怒っているかと言えば 命の尊厳とは 他人が都合で言いくるめたり弄んだりする事柄ではない 大体よく知りもしない人のことをどうするとそのように言い切れるのか 僕にはよく解らないし 他人の死を今後何かを行うために体裁よく利用しようとするなら それは全く人のすることではない。 お国のため という集団幻想を持ち出されると どうも暗い過去を想起されていたたまれないのだ しかも爺さんが爺さんだけに・・・

僕が死んだら愛した人達が記憶を楽しんで忘れてくれたらいい

2013年1月20日日曜日

自分でも気づかないうちに どこか もうこれでいいかもしれない という思いが侵食してくる 贖え無い甘美なそれと 戦うべきかどうか・・そもそも 求めていたのは べきなどではなかったはず すべきと言ったら負けを認めるそれと どう付き合えばいいのか そんなところからはもう 脱出しているはずなのだが 時々戻ってくる居心地のいい幼児性・・・  

2013年1月16日水曜日

とても久しぶりにブログ更新


パリ深夜3時30 最近 人が寝静まってから意識が暴走する。普段から過去を懐かしむ癖などはないのだが 昔のこととかも断片的に思い出されたりする。 まさかにこれが老いか?!! 
20代と今では環境も表し方も大きく変わったけど、基本的に向かっていることは大して変わらない。いまだに世捨て人的聖性への憧れもあるし目標もそこにある。こういう類いの弱音にも 今は幾らか寛容になれてはいるが、そろそろまた全てを擲って状況を変える時なのかもしれない。